大江広元の墓


法華堂の奥にある源 頼朝の墓の裏手からよじ登って(コレ大袈裟な表現ではありません!ロープを握り締めて登りました。油断すると滑ります!)、藪の中を進むとある。
鎌倉殿を擁立した関東武士団の出身ではなくて、京都から招かれた文人貴族。
参議の藤原光能と式部権少輔大江維順の娘との間に生まれ叔父に当たる式部少輔維光の養子となる。
母親が法律を掌る明法博士中原広季に再嫁すると中原姓を名乗る。1170(嘉応2)年に権少外記として太政官外記局に勤務。
母の姉が源氏譜代の家臣山内首藤俊通の妻でもあり、頼朝の乳母を勤めもしたという背景を持ち、頼朝の挙兵以前から京都の情報を頼朝に知らせていた三善康信との関係から、源 頼朝の側近の足立遠元に人材紹介を頼まれた藤原光能は実子ながら不遇の地位にあった広元を推薦。
広元は1184(元暦元)年に鎌倉に下向。
鎌倉殿の死後も北条政子と北条義時に重んじられ鎌倉幕府の基礎を築く。
ちなみに、広元の四男の季光は相模国毛利荘を拝領したことから毛利姓を名乗ることになる。これが安芸の毛利家の始め。




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