鎌倉公方邸跡


鎌倉五山の一つ浄妙寺のすぐ横にあるのが鎌倉公方邸跡。
鎌倉公方は、鎌倉の鎌倉府にあって室町幕府の関東統治を取り仕切った。
実質的に室町幕府2代将軍義詮の弟の基氏から始まって、6代成氏が関東管領上杉氏との戦いによって古河に逃れるまで4代続いている。


鎌倉公方の足利持氏は京都の室町幕府将軍足利義教と衝突。鎌倉公方の補佐役の関東管領山内上杉憲実は将軍に従い、1438(永享10)年に持氏は自害[永享の乱]。
持氏の子の安王丸と春王丸は日光へ逃げ、万寿王丸は信濃国の大井氏に匿われた。
かねてから京都の幕府側に反発を覚えていた関東側は2年後に安王丸と春王丸を結城氏朝のもとで擁立し叛旗を翻すも、結局は幕府側によって滅ぼされた[結城合戦]。
混乱を収めるために、関東管領上杉憲実は万寿王丸こと足利成氏を擁立することで鎌倉府の再建を図る。
ところが足利成氏は単なる傀儡であることに満足せず、また、かつて鎌倉幕府を樹立した「鎌倉諸侍」の期待を背負って、山内上杉氏執事長尾氏と扇谷上杉氏執事太田氏と衝突(1450[宝徳2]年「江ノ島合戦」)。
幕府側の介入を嫌った鎌倉公方足利成氏は1454(享徳3)年に憲実の子の山内上杉憲忠を討ったことで、鎌倉公方側と両上杉軍との間で「享徳の大乱」が現在の立川、府中、日野で繰り広げられることになる。
そして、この後、成氏は鎌倉に戻ることはなかった。


こちらが、邸跡からみた金沢街道。それにしても、この日は暑かった。。。


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