景清土牢


化粧坂切通しの入り口にある。
正直なところ、これが土牢といった感想。
鎌倉宮にある護良親王の土牢に比べるとあまり原型を留めてはいないのではないだろうか。
それとも、この狭い窪みの中に押し込められたのか。
景清(不詳 - 1196[建久7])は、本名を藤原総七郎兵衛尉景清といい、藤原秀郷の血を引く父の藤原忠清が平清盛に仕えていたために、平 景清と名乗った。
また、摂津で日本達磨宗の開祖で叔父にあたる大日能忍を殺害したために悪七兵衛と言われた。
壇ノ浦で平家が敗れた後に、鎌倉に潜伏し源 頼朝の暗殺を企てるも捕らえられ八田知家の家に預けられた後に絶食して命を絶ったという。
それが、この辺りになるのだという。なお、この景清はたいそうな色男だったらしく、化粧坂の上にあった娼館の女性達が様々な贈り物を手にして土牢に通ったのだとか。




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